「住まいの詩学」―第6回:“香り”のある暮らし〜インテリアを決定づける目に見えない素材―
一級建築士・統括デザイナー・ストレスアナリスト/町田瑞穂ドロテア 取材/杉浦みな子
インテリアコーディネーターの町田瑞穂ドロテアさんが、美しい住まいのあり方を多角的な視点でひもとく連載「住まいの詩学」。第6回のテーマは「香りのある暮らし」です。色や素材、照明、家具、アート……これまで視覚や触覚など私たちの“五感”を軸に、さまざまな角度から掘り下げてきましたが、今回はインテリアの印象に深く影響する感覚「嗅覚」に光をあてます。

一級建築士
統括デザイナー
ストレスアナリスト
スイス生まれ。
武蔵工業大学工学部建築学科卒業(現:東京都市大学)
日本の住宅メーカーをはじめ、米国の設計事務所RTKL International ltd.にて勤務。
2000年の帰国後より、町田ひろ子アカデミーにて教育・商品企画・インテリアデザインなどに関わる。英国ロンドンにあるKLC School of Designにて、インテリアデザインとインテリアデコレーションのディプロマ(資格)を取得。海外の経験を活かし、日本の住空間にあったデザイン&コーディネートを独自の視点でデザイン提案。現在は、nat株式会社にてCDO(最高デザイン責任者)として、空間設計事業及びインテリアデザインブランド「青山スタイル」を統括し、提供している。
香りとは、空間の印象を一瞬で決める「目に見えないインテリア」
ドアを開けて玄関に入った瞬間にふっと漂う、その住まい独特の芳香と空気感。「それは単なる香りにとどまらず、空間の第一印象を決め、そこに住む人の時間や記憶を包み込む“目に見えないインテリア”です」と瑞穂さんは語ります。
「どんなにインテリアが素敵であっても、嫌な匂いがした瞬間にすべてが台無しになってしまう——。香りはそれほどまでに強力で、空間の印象をガラッと変えてしまう力を持っています」(以下、太字カッコ内の言葉は瑞穂さん)

Image:jafara /Shutterstock.com
そう、五感のなかでも嗅覚は感情や本能にダイレクトに働きかけることもあり、香りは空間の居心地を一瞬で判断する強い要素となるのです。
「家具やアートと同じように、香りもまた固有の“人格”を持っています。住んでいる人自身が自覚していなくても、その家が持つ独特の香りは、空間を構成する欠かせないレイヤーになっています。そして、慣れている住まいの香りが自分の中の基準になり、外に出て違う香りを嗅ぐことで、新しい世界を認識することになります。香りは、人の経験と密接につながる要素なのです」
インテリア素材を選ぶことは、空間を「調香」すること
プライベートな住まいにおける“香り”を考える際は、自分軸の心地良さを重要視することも大切です。
「良い香りには非常に個人差があります。自分が大好きな香りであっても、家族や訪れる人にとっては強く感じられたり、落ち着かない原因(スメルハラスメント)になってしまうことさえあります。だからこそ、住まいにおいては『誰のための空間か』『その部屋でどう過ごしたいか』という目的に合わせたチョイスが欠かせません」
空間ごとに目的が異なるからこそ、プライベートな寝室や食事を楽しむダイニングでは、香りが主張しすぎない配慮が必要。瑞穂さんがインテリアコーディネートを行う際は、その空間に住まう人のライフスタイルに合わせて、香りを演出しています。
「インテリアの香りをご提案する際は、空間のコンセプトや施主様のライフスタイルに合わせます。例えば、ワインを嗜むためのシックなリビングダイニングには、赤ワインをモチーフにした『ドットール・ヴラニエス』のデキャンタタイプのディフューザーを選びました。また、マセラティを愛車にされているお客様の住宅では、マセラティ創業100周年を記念したグリーンシトラスやサンダルウッドの香りのフレグランスを玄関に演出したこともあります」
視覚的に絵画を飾るように、香りによって空間にひとつのアートを描き出す。それこそが、インテリアにおける香りの仕掛けなのです。

なお、ルームフレグランスやアロマディフューザーを部屋に置くことが「香りのある暮らし」のすべてではありません。瑞穂さんの捉え方はより根本的です。
「フレグランスを置く前に、その住宅を構成している元々の香りがあります。まず、家具の木材やソファの革といったインテリア素材の香りですね。実はインテリアを選ぶ行為は、住まいの空気を“調香”していることにほかなりません。
さらに、暮らしの中で使っている石鹸や洗濯洗剤の香り、毎朝入れるコーヒーの香り、窓を開けたときに飛び込んでくる庭や街の香り……それら複合的な要素が重なり合って、その家だけの香りが作られているのです」


Image:Anna Puzatykh /Shutterstock.com
また、木や革は呼吸するように湿度や温度を纏い、人の手や脂に触れて香りを変えていく。その「経年変化の香り」もまた、長く愛された家屋だけが持つ独特の味わいとなります。
まずは住宅そのものが持っている香りを踏まえ、そこにプラスする形で香りの演出を選んでいくのが、真に豊かな空間を作る重要ポイント。そしてそこには、「あえて香りをプラスしない」という選択肢もあると瑞穂さんは語ります。
「吉野の檜や杉、熊本産のいぐさを使った畳をふんだんに取り入れたお住まいを担当した際は、あえてルームフレグランスをご提案しませんでした。その空間では、木材やいぐさが持つ天然の素晴らしい香りを、そのまま大切にすることが最良であると思われたためです」
また瑞穂さんは、こういった天然素材の香りが、現代の住宅から消えつつあることも指摘します。
「かつての日本の建築には、畳のいぐさや檜の柱、竹や土壁といった自然素材が放つ香りが当たり前に存在していました。一方、現代の住宅では新建材が増え、無臭化の技術も発達したことで、住まいから天然素材の香りは減りつつあります。
昔は食べ物の傷みや自然の異変を匂いで判断するなど、暮らしのなかで自然と『匂いの教育』ができていましたが、今は住宅の中から香りが少なくなっています。無臭化の技術が発展した現代は、安全と危険を見分ける感覚も含め、積極的に嗅覚を育むことが必要な時代なのかもしれません。現代ならではの香りの演出も工夫したいですね」

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五感のグラデーションと、季節を愛でる暮らし
さて、私たちが空間を「心地よい」と感じるとき、五感はどのように作用しているのか。瑞穂さんは、五感が持つ「時間軸の違い」についてこう語ります。
「一番影響が大きいのはやはり『視覚』で、その次に大きな影響を与えるのが『嗅覚』だと思います。つまり、インテリアの『見た目』と『香り』は、空間に入った瞬間にその場の印象を決定づける、フラッシュのような強さを持っています。なので、この2つはインテリアを構成する上でとても重要です」

Image:Shutterstock AI /Shutterstock.com
「一方で、ファブリックの肌触りなどを感じる『触覚』や、空間に響く音を聴く『聴覚』は、そこに長く滞在することで時間をかけて感じられていくものですね。こちらはじわじわと空間の印象に効いていく要素です」
瞬時に空間の質を捉える、私たちの嗅覚。四季のある日本では、季節の移ろいも香りが運んできます。
「季節に合わせて、心地良い香りは変わりますよね。春は萌え出る花や草木のフローラルな香り、湿度が高く暑い夏は清涼感のある爽やかな香り、秋は落ち葉や木々の落ち着いた重みのある香り、そして冬はオレンジとスパイスを合わせた体が温まる香り……。
窓を開けて入ってくる風の匂いを感じたり、季節の切り替わりに合わせて香りを少し変えてみたりする。それは、日本の四季の空気感をそのまま愛でる贅沢な時間です」

生成AIを使って作成
香りによって作られる記憶のアンカー
そして嗅覚は、五感の中でも特に記憶と強く結びついているものです。
雨が降り始めた瞬間の土の匂い、季節の変わり目の空気、あるいは実家の玄関の匂い。特定の香りを嗅いだ瞬間、思い出の情景や感情が一気にプレイバックする体験(プルースト効果)は、誰もが持っているのではないでしょうか。
「私自身、スイスにある生家を何十年ぶりかに訪ねたとき、いきなり涙が止まらなくなった経験があります。言葉では表現できないのですが、庭の草木や風の匂いが、自分でも忘れていた幼少期の記憶を呼び覚ましたのだと思います。 “香り”が想い出とつながる大きな影響を実感した出来事でした」
住まいの中にある香り。それは、いつの間にか私たちの暮らしの記憶と強く結びついているのです。暮らしの中で育つ「その家だけの香り」は、住まい手に寄り添う記憶のアンカー(錨)となっていくのでしょう。

Image:New Africa /Shutterstock.com
「前回、脳が美しさや心地よさをどう受け止めるかという『神経美学』についてお話ししました。現在の神経美学は主に視覚的なアプローチが中心ですが、私は人間の感情にダイレクトに作用する嗅覚的アプローチも、神経美学につながってくるのではないかと感じています。
懐かしい草木の匂いや木の香りを嗅ぐことで心がふっと解き放たれるように、香りが持つ記憶へのアプローチは、医療やケアの分野も含めてこれからさらに発展していく可能性があるのではないかと。そう考えると、住まいの中にある日常的な香りは、私たちの記憶を作り上げる重要な要素なのです」

Image:ESstock /Shutterstock.com
これから「香りのある暮らし」を始める人へ
最後に、日常の中で「香りのある暮らし」をスタートするためのアドバイスを伺ってみました。
「まずは自分がその部屋で『落ち着きたいのか』『活動的になりたいのか』、気持ちの方向性をイメージしてみてください。どんな香りを選ぶと、その気持ちが高まるかを考えると良いです。
そしていきなり芳香を加えるのではなく、まずは換気や清掃によってその場の空気を「リセット」しましょう。そのうえで、最初から強いアロマディフューザーを置く必要はありません。ドライポプリやサシェ(香りの袋)といった、柔らかく香るアイテムから取り入れてみるのがおすすめです。
例えば、肌になじむ”スキンセント”な香りが向いています。はっきりとした甘さよりも、クリーンな茶葉やウッド系、シトラス、ムスクといった、輪郭をふわりと解き放つだけの控えめな存在。そっと寄り添う佇まいです。お気に入りのポプリを素敵なガラス器や麻の袋に入れて飾るだけでも、視覚と嗅覚の両方で楽しむことができます。
香りとは、住まい・暮らしの中で“愛でるもの”のひとつ。自分自身を豊かにし、気持ちを安定させてくれるプライベートな存在です。季節感や空気感と合わせて、香りを楽しむことが豊かな暮らしにつながるのではないでしょうか」
住まいは、単に雨風をしのぐ箱ではなく、住む人の心や時間を育む場所。目に見えるインテリアを整えたら、仕上げに目に見えない“気配”を優しく纏わせてみる——。香りを愛でる心の余裕が、いつもの日常をより愛おしく深いものへと変えてくれます。
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一級建築士・統括デザイナー・ストレスアナリスト
町田瑞穂ドロテア
スイス生まれ。武蔵工業大学工学部建築学科卒業(現:東京都市大学)。日本の住宅メーカーをはじめ、米国の設計事務所RTKL International ltd.にて勤務。 2000年の帰国後より、町田ひろ子アカデミーにて教育・商品企画・インテリアデザインなどに関わる。英国ロンドンにあるKLC School of Designにて、インテリアデザインとインテリアデコレーションのディプロマ(資格)を取得。海外の経験を活かし、日本の住空間にあったデザイン&コーディネートを独自の視点でデザイン提案。現在は、nat株式会社にてCDO(最高デザイン責任者)として、空間設計事業及びインテリアデザインブランド「青山スタイル」を統括し、提供している。
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取材
杉浦 みな子
1983年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。在学時は映画研究会で映像制作に勤しみつつ、文芸評論家・福田和也教授に師事。2010年よりAV・家電メディアの編集/記者/ライターとして13年間従事し、音楽とコンシューマーエレクトロニクス系の分野を担当。2023年独立。音楽・オーディオ・家電から、歴史・カルチャーまで幅広いテーマで執筆中。実績はこちらから→https://foriio.com/minako-sugiura